言葉が歩く
こんにちは。
ライフスタイルギャラリーの本社で働いている人間(29)です。
「言葉を使うのが怖い時ってあるよ。」
守口が言った。『武智次郎 白杖の男性』が、ずっと明滅している。
「その言葉がすべてになっちまうんだから。」
守口は、もう一度、ごぼ、と、咳をした。
自分の考えていること、思ったことを言葉に具現化することは、いつの時代もひとつの能力だと思う。
令和の今日に、コラムで思ったことを書いている僕くらいは、そうであると信じ続けたい。
AIに質問をすれば、それらしい解答が返ってきて、エビデンスのない発信をすれば、揚げ足をとられ。
でもよく考えてみれば、偉人たちの名言だって、ふつうのことを言っている。
そのふつうにたどり着くのに、何年、何十年も費やすのだけどね。
失ってから初めて気づくということを、人間は何度も何度も繰り返し、生きてきた。
その先人の恩恵を受けながら、現代の僕たちは、地に足をつけ、生きている。
先日、ある知人と話していて、「誰にアドバイスを求めるのか」で少し盛り上がった。
例えばダイエットをしたいと僕が思って、
・ダイエットをしたことがない健康的な友人が反対してきた。
・ダイエットとは無縁なスポーツマンの親戚が賛成してくれた。
・本職でトレーナーをしている知人が有効な選択肢を提案してくれた。
という3つの意見をくれたとする。
もちろん三人目のトレーナーの意見が一番親切な可能性が高いだろう。
ただ、まず一人目の意見を真に受けてしまって、ダイエットが始められないパターンだってある。
ダイエットの「ダ」の字も人生に必要のない人に意見を求めて、無責任な返事が返ってくることだってある。
思ったことを、まず人に聞いてもらいたい時は、ほとんどが背中を押してほしい時なんじゃないかな。
人間、思い立った日が、決断の日である。
思うより先に足が動いて、手が動いて、壁にぶつかって、頭を使いながら、どうにか少し先の未来に手を伸ばそうとする。
その決断を正解にできるかどうかも自分にかかっている。
もちろん、いつだって戻ってくれば良いし、それが正解の世界線だって存在する。
背中を押してほしい時は、自分の味方ではなく、中立な意見をくれる関係性の人に意見を求めるのがいいだろう。
僕自身、ダイエットを意識して生きたことはないけど、年を重ねるにつれて体重が落ちにくいということくらいは、身をもって体感している。
今くらいの体形が健康的で、程度がいいとは思うんだけど。
そんな中、今年も県内で開催されるフルマラソンを走ることができる。
走ることが好きなわけでもないし、習慣になっているわけでもない。
エントリーして、通れば、走り始める程度の市民ランナーだ。
ただ目標ができると少し楽しくなる。
そしてマラソンというのは面白いもので、いつだって止めることができる。
疲れて足を止めることだってできるし、途中で辞退することも簡単だ。
タイムがよくたって誰かから褒められることもない、ただ自問自答しながら走り続ける、それもエントリーフィーを払って参加する。
だからこそ楽しい。
そして沿道の応援に背中を押されながら、涙も出そうになるほど感動しながら、最後の直線を走り切る。
走った直後は達成感に心を満たされながらも、こんなにもしんどい思いはもう良いかなと、来年はエントリーしないと心に決める。
ただ半年ほど経てばそんなことを忘れて、例年通りエントリーをする。
失うものなどないのだけど、あの苦しさを毎年忘れ、繰り返し、生きてる。
写真を撮る癖をつけようと思い、早半年。
写真フォルダがパンパンになることもないけど、変な色の空くらいは撮るようになった。
これは何色と呼べばいいのだろう。
少し間が空いてしまったコラムだけど、この投稿を重ねていくことで、写真フォルダを増やしていくように、日々感じたことを、引き続き綴っていこうと思う。
言葉はどうにでも伝わってしまうから、使うのが怖い時もあるが、伝えることで思いが成就することもある、かもね。
少しの希望で、生きることが楽しくなるんだから。